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菅浦

菅浦

びわ湖の最北端。深く入り組んだ湖岸沿いに車を走らせると竹生島と葛篭尾崎の先端が見えてくる。さらに進と標高400mの山々に包まれるようにして菅浦の集落が現れる。その特異な地形や文化、豊富な歴史ゆえに著名人もたくさん訪れている。
そのなかでも特に下記の2人の作家は有名。

遠藤周作氏

プロフィール

出身:東京(1923年-1996年)
1955年「白い人」で芥川賞を受賞。1995年、文化勲章受章。 主な作品『万華鏡』『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『スキャンダル』等。


この地を訪れた作家の1人で、そのときの様子を万華鏡のなかの「忘れがたき風景」に記されています。 二月の午後、入り江のようなその地点の周りの山々は白雪に覆われ、冬の弱い陽をあびた湖面は静寂で寂寞としていた。車からおり、コートのポケットに手を入れ、私は長い間、まるでスウェーデンかノルウェーのフィヨルドに来ているような思いだった。
※万華鏡「忘れがたき風景」より

さらに、「菅浦は北欧の景色に似てる、とくに森と湖の国フィンランドに似ている」とも言われた。
※当時の町長談

そのことからこの地では北欧の地域や人と交流を図っています。

白州正子氏

プロフィール

出身:東京(1910年-1998年)
1929年 白洲次郎と結婚。1973年 随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞
主な作品 『かくれ里』『十一面観音巡礼』『西国巡礼』等


白州正子氏もこの地を訪れた作家の1人です。そのときの様子は「かくれ里」に記されています。
菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(つづらお)崎という絵図で見るとおり、竹生島は目と鼻の間で、街道からは遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である。つい最近まで、外部の人とも付合わない極端に排他的な部落でもあったという。
※かくれ里より

歴史

歴史

集落の入口(西側)には「四足門」と言われる茅葺きの門があり、村の出入りを監視する要害の門、今で言う関所の役目を果たしていた門だ。また別名を「四方門」とも呼ばれ近年までは東西南北(現存するのは東西の二箇所のみ)の集落入口に設置され集落内を明確にしていた。この四足門は菅浦に残された文書から中世後期からすでに存在していたことが確認されている。

伝説

伝説

西門をくぐると、淳仁天皇を祭神とする須賀神社がある。この地域には淳仁天皇の伝説が残っており、菅浦の人々は淳仁天皇の氏子して暮らして来られた。世には、淳仁天皇は恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れ、淡路の廃帝となり淡路(兵庫県)に遷じられて崩御されたと伝えられている。そんな書記もある。 しかし、ここに伝わる伝説はこうだ…恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れこの地に隠棲したと言う。都を追われ、びわ湖渡りこの地に流れ着いた。その際に葛篭(かご)に隠れて舟に乗り運れてきたそうだ。淡路というのは淡海の間違えであったと伝えられている。 また葛篭に隠れて…という所からなまり葛篭尾となり、葛篭尾崎と地名になっている。 これに加え昭和46年に奧びわ湖パークウェイが開通するまで、交通手段は船が主で陸の孤島だった事もかくれ里と言われる由縁だろう。

文化

文化

集落は1時間足らずで1周できてしまう。前はびわ湖、後ろは山。 田畑を耕す土地が少ないため、石垣を積んだ防波堤の上の小さなスペースに野菜や果樹を植えている。生きるための知恵だ。今も土地は個人の所有物ではなく、菅浦の財産だという意識が強い。 09年現在76戸。この1000年の間、平均100戸前後を推移しており、これは昔から跡取り以外はよその地へ…土地を売買するのは集落内で、引っ越しは村の中で家を交換する家移りで、という決まり事を守ってきたからだといわれている。

風習

風習

「そなた(あなた)わら(私)」という公家言葉を話したりする。 これは先に記した伝説に信憑性を持たせる。さらに「六三郎」「清三郎」 と先祖の屋号で呼び合うなど変わった風習が残る。

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